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忘れちゃいけない阪神大震災 ひとりごと

夜が眠れなくなったことがある。 もう24年たつのかと。

身の回りの何人が犠牲になっただろう。 身の回りの何人が胸を締め付けられるような苦しみを味わったんだろう。 そしていま、私は生きている。

ドカーン という爆音は戦争の爆弾を味わったことのない平和な時代の私でさえ瞬時に、「戦争の始まり」を思い起こさせたほどの振動だった。

飛び起きた刹那、建物の揺れに混乱のまま、布団を彼女にかぶせて窓を開けた記憶がある。 窓の外には何事もなく日常が広がっていてさっぱり何が起こったのかわからなかった。 するとまた揺れて、スマホなんてなかった当時はすぐさまNHKをつけると、「神戸震度6」と表示されていて「なんだ地震か」とほっとした記憶がある。 戦争ではなかったが、個人的にはそのまま戦争が始まったかのようなスケジュールが始まった。

彼女と顔を見合わせ、落ち着こうとしていると救急車なのか消防車なのか騒がしい音が鳴り始める。 もう一度窓の外をよく見てみるとさっき見ていた日常は日常ではなく少し夜が明け燃えている家や、崩れてる家が見えた。 もう一度テレビをつけるともう町は燃えていた。 そしてあらゆるものが崩れていく。

16歳から働いていた私は当時21才、神戸から姫路までの24時間営業の飲食店のリーダー店店長と上司が退職した直後だったため、地区長の職も見習いがてら兼任していて、すぐさま公衆電話にかけより管轄していた8店舗へ電話。無事を確認し、無事な店への通常営業と、被害のあった店への臨時閉店の指示を出し、どうしても連絡が付かない店へ彼女の原付を借り急いだ。

店が近づくにつれ、店舗が入っているはずのビルが何かおかしい。 店に近づくと店員が2名立っている。よく見るとビルは崩れかけ、一階部分がいつもの半分の高さしかない。そしてなんと、こんな時でも店の売り上げと釣銭を抱えて、立っている。 幸い擦り傷ぐらいしかなかったが、店にはラジオも置いてなかったので、情報を与えお金を預かり困ったら近隣の店か私のポケベルを鳴らすように伝え店はほっといていいからとりあえず自宅確認してこいと帰らせた。 そして店の中に入って火の元だけでもと思ったが入る隙間はない。 あとで話すと二人がでた後の余震で再度崩れたらしかった。

再度原付を飛ばし彼女を後ろに乗せ西へ西へと向かいながら目に入ってくるのは火事と崩れた建物。 途中何度かがれきの下敷きになった人の救助を手伝いながら、 一人で泣いている迷子を助けたり、 そして公衆電話に立ち寄りながら彼女の実家のある西へ、店舗が無事な西へと向かった。

今考えると西へ「逃げていた」のかもしれない。

そして神戸よりどんどん西へ向かいながら店舗を確認し現金の回収と、従業員を帰らせ連絡を取り合えるもの同士で連絡を取り合わせることを指示し、 新幹線の西明石を過ぎたところでなんとなく風景が変わった。 家事も無くなり、倒壊家屋も見えず。 辺りは静かになっていた。

「そうか神戸だけなんや」 と地球が、世界が、日本が、近畿が、そして関西がすべて潰れたわけじゃないことをようやく実感できた。 時は1995年。 1999年のノストラダムスの大予言なんかを信じて少し大人になっていた僕には十分安心できることだった。 そしてここで大阪にいる両親に安否の連絡をしようと電話をかけるも電話は繋がらないまま。 大阪の実家は震度5ぐらいだったはず。 当時大きな地震といっても震度5も珍しい関西では無事を祈るしかなかった。

実家と連絡の取れた彼女は西明石の友人宅にいてもらい、なんとか加古川まで到着。 着いた時には夜中になっていた。 用事をこなしながらとはいえ今思えば、40kmを15時間以上かかったことになる。原付では大変。 無事に営業できているのは加古川以西の4店舗だけ。 タイミングの悪いことに、年末年始の繁忙期を過ぎ、各店舗にいるはずの店長がみんな里帰りをしている状態。 しかもポケベルなんて管理職しかもっていない。 帰省先の連絡先を知ろうにも大阪の本社は全く電話が通じない。 今も当時も「連絡」というインフラが切れたときは心細くなる。 当時は若干21才。8店舗・年商12億・従業員150名を任された身だ。 知っている限りの従業員のポケベルを使い全員と親族の安否を確認する連絡網を作り実行して、あとは従業員に任せ寝るはずだった。 ところが夜中に来るはずの食材や包材・材料が来ない。 それもそのはず すべて名古屋方面にある配送センターから運ばれてくるんだから。

そこからは3年ほど前に上司で、当時九州支社に転勤していた人を頼り、九州支社から食材や包材・材料を送って貰う手はずをつけ、厨房でコードレスホンを首に挟みながら、営業できている店の在庫を管理。 途中フロアーに出ていた従業員から、「店長、お金は後日払うので食べさせてくれないかとお客様がおっしゃってます」と言われた。

・・・そうかこの道は今、神戸からの避難ルートなんだ。

「お客さんには 名前と住所だけ紙に書いてもらってお金は一年以内で結構ですと言え」と。

あとで考えると、どえらい勝手な判断だが、パジャマ姿や、顔が汚れているお客様を見るとそういわざるを得ない気持ちになってしまった。 今考えると会社的には新聞に載るほど英断だったのだが、若気の至りだろう。 そして途中でいったん寝たくなり従業員3名を一度に休憩させ一人で店を回してる途中に、暖かいお茶の入った湯呑を握りしめ泣いているお客さんがいた。 その頃には加古川以西の全店に「駐車場の散水栓の水はご自由に」「お金のない方は名前と住所だけ書いていただけたらお代は後日で結構です」の張り紙が完了していた。 もちろん勝手にだ。

そのお客さんは食事を提供したとき「ありがとう、店長さん 握手させて」と言ってこられて、少々昔大阪堂島のニューハーフ軍団に握手されたことを思い出しながら握手した。 その時いつもはそんなに埋まらないのに、震災のせいかほぼ埋まっていた客席から拍手が起き、不覚にもその日の疲れか何なのか

私は「こんな時なんで」と声に出せていたかはわからないが奥に引っ込み「お前ら休憩ちょっと中断じゃ」といって、一人で泣いた。 何だろう。 この涙は。

緊張していた体から一気に力が抜け、「企業の社会貢献」という研修や集会のたびに唱和していた言葉が身に染みて実感したときである。

幸い、全従業員第二親等までに死者重傷者はいなく、私の手が届く守れる範囲は大丈夫であった。

そしてこのまま混乱のまましばらく寝ずに過ごしていくことになった。

続きはまた

ほなまたね

 

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