忘れちゃいけない阪神大震災 ひとりごと②

忘れちゃいけない阪神大震災 ひとりごと②

そのあとはもう無茶苦茶だった。

「企業の社会貢献」を味わった小僧は寝ずに走り続ける。 そう「実は無免許」だったことも忘れ我が物顔で誰も管理することのない社用車で走り続けていた。 何度か「震災で免許が・・・」なんて言いながら乗っていたが結局私は昔暴走族で捕まったことを入れ24歳まで免許取得ができない体になってしまいました。 お嫁にいけない!

結局「企業の社会貢献」という正義に勘違いした小僧は24歳まで免許取得できない体になってしまった。 社内で22歳で地区長になれば史上最年少記録を2年更新だったのに。(地区長には車の免許が必須)

そして一か月ぐらいたったある日、大学生のバイトが大阪にいったん帰ることになった。 私も便乗し当時大阪の西淀川区にあったマンションに久しぶりに帰ることとなった。

そう。 彼女にとっさに布団をかぶせて「惚れ直した♪」と言われた場所は神戸のホテル。私の家じゃないし彼女の家でもない。 地震で当時流行りのウォーターベッドはたっぷんたっぷん揺れるし、 外を見るにも窓は開けにくいし。 テレビつけたらいや~んって言ってるし。 停電で自動支払いのドアが開かなければ缶詰めになるところだった。

唯一大阪で液状化現象が起きていた、西淀川区のマンションに帰ると、なんとエレベーターは震災の影響で故障中。 外壁にはひびが入ってる。 部屋に入ると、当時はやっていたガラスのテーブルに、自慢のダブルウィンドウテレビが突っ込んでいてガラスは粉々に。 生まれて初めてローンを組んだテレビが…

そして、新築2年目のマンションは、外壁にひびが入り 保証金全額返還や半年分の家賃と引っ越し代だったかで結構なお金をいただいて儲かりながら退去した。

そして寝袋の日々から 布団で寝れる~って思ったが結局は姫路にある独身寮を間借りし寝袋生活のまま人事異動のある三月を迎えることになった。

 

まあ私には文才はないし、こうやって書くと24年前の光景はよみがえってくるのだが、たかだか4000文字。 原稿用紙10枚分だ。 あの大災害を昔ならきっと一晩中語れたに違いない。

 

これが記憶の風化というものかもしれない。

 

だけど、これでいいんだと思う。

犠牲者が出たことも。 街が壊れてしまったことも。 一瞬で消えてなくなった方もおられるだろう。 悔しさに叫びながら消えられた方もいるだろう。 そしてそれを受け止めて生きておられる方もいるだろう。 誰が悪いわけでもなく 誰が良かったわけでもなく。

残していかなきゃいけなくて、忘れちゃいけないのは 災害発生に対する準備なんだろう。 マニュアル、取扱説明書といってもいいのかもしれない。 何かが起こるたびにブラッシュアップしていかないと。 うちの近隣でも相も変わらず 土砂災害警戒区域に住宅地を造成しているし、津波で浸水するだろう場所にも住宅地や、店舗ができている。 結局は一人一人が気を付けて、そして大事な人のことも気を付けて。 そうやって輪が広がらないと仕方ないのかもしれない。

「地球に生きているんだから仕方がない」なんて言葉では片づけたくないが、やっぱりそうなのかもしれない。

あの震災を経て、日本は「ボランティア」や「復興」「助け合い」「防災」という言葉が根付いたようにも思う。

あの方たちの犠牲がきっと その後の災害に生かされていることを祈るばかりである。 それを雲の上で見守って安心して安らかに眠れるような地上になっていればいいんだと。 そう思わないと残された人間はやってられない。

災害は、地震でも水害でも必ず発生するもの。 もう一度色々と準備を再確認したい。 災害で悲しい思いをする人が一人でも減りますように。

ほなまたね